香港の裕福な家庭に生まれ、10人兄弟の10番目なので幼名は"十仔"(姉1人と兄2名は夭折しているため、実質は7人兄弟)。父はハリウッドスターなどを顧客に持つ有名テーラーで紡績工場の経営者。母は事業に忙しく、レスリーは祖母の家に預けられ、"六姐"と呼ばれる乳母に育てられる。 1969年、英国東部のノーフォーク州に留学。その後リーズ大学に入学しテキスタイルを専攻するが、父が病に倒れ学業半ばで香港に帰国。中国語の学力を心配した母の勧めで中学5年クラスに編入。その後しばらく父のコネで入った弁護士事務所や、自分で見つけた販売員の職などを転々とし、家族とは離れて暮らす。 1976年、友人と共にテレビ局主催の歌謡コンテストに出場しAmerican Pieを歌い準優勝。翌1977年から歌手として芸能活動を開始するが、しばらくは下積み生活に甘んじる。 1983年に「風継続吹~風は吹き続ける」(山口百恵「さよならの向う側」のカバー」がヒット。 1985年には「Monica」(吉川晃司「モニカ」のカバー)が大ヒット。 レスリーは一躍トップアイドルに踊り出て、以前からトップアイドルだったアラン・タムとライバル関係に、ファン同士の仲の悪さも有名で、レスリーはアランのファンから執拗な嫌がらせを受けた。その影響もあり、1989年に歌手引退宣言。カナダへ移住する。しかし半年後に帰国、芸能界に俳優として復帰。 俳優としては、1982年に譚家明の『烈火青春』に出演し、後のウォン・カーウァイらニューウェーブに影響を与える。その後はいわゆる「アイドル映画」に出演。 そして、1986年に『男たちの挽歌』、1987年には『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』など、数々の大ヒット作に出演。香港映画界の金字塔を打ち立てる。 1990年、ウォン・カーウァイの『欲望の翼』で香港アカデミー賞主演男優賞受賞。 1993年には中国のチェン・カイコーの『さらば、わが愛』に出演、カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞。 1997年にウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』は、日本の単館上映記録を塗り替える大ヒットとなる。 また、1994年陳可辛の『君さえいれば』出演を切っ掛けに楽壇復帰。 2000年に開催されたコンサート『PASSION』は、衣装設計をジャン=ポール・ゴルチエに依頼。そのファッション性や斬新で圧倒的なパフォーマンスで大成功する。日本でも大宮・横浜・東京・大阪・名古屋・福岡で開催され、成功を収めた。 この年の音楽賞レースでは若手アイドル歌手を蹴散らし6曲同時に新曲がノミネートされるなど、"レスリー"は歌手として第2の頂点を極める。 そして念願だった映画監督になるべく、多くのミュージッククリップやTVドラマ、短編フィルムなどを撮影している。 監督デビューは1996年『色情男女~夢翔ける人』での劇中ポルノ映画『夢翔ける人』。 2003年4月1日、香港の高級ホテル「マンダリン・オリエンタル香港」より飛び降り自殺、死去。享年46歳。 レスリー・チャンの命日に集うファン、 自殺の現場になった「マンダリン・オリエンタル香港」の門前には、ファンによって無数の花束と死を悼むメッセージカードがささげられ、同ホテルの門前は黒山の人だかりになった。葬儀には香港の芸能関係者のほとんどとファンが参列、香港のみならず華人社会が悲嘆にくれたという。 自殺の原因については、一年前後から鬱病を患っていたとされている。 さまざまなセクシュアリティをもつ役を演じたが、私生活では「バイセクシュアルと言ったほうがしっくりくるかな」と発言していた。 |